自分の働きについての対価を意識したことはありますか?
ぼくはここ最近強く意識し続けています。
このブログについてではないので先に断っておきますね。
どの部分についてかというと所属している倫理活動についてです。
支部の事務長という役職を受けておりますが、この活動についての金銭的報酬と言うのはありません。
この役を受ける上で経験という報酬はおそらく受けているのでしょう。
一旦はこの経験報酬だけでもありがたいと思い意欲的に取り組んできましたが、折々に触れて金銭的な不安に駆られた時、どうしても金銭による対価がちらつきます。
会活動をしている皆さんも当然無償の働きをしています。
金銭的に安定している人もいるでしょうがそうでない人もいます。
ただ皆さん、そんなのは関係なく真剣に会活動に時間を惜しまず働きによる金銭的対価を求めず向き合っています。
そんな姿を横で見ている時にタイトルの言葉が浮かんできました。
「この人たちは神とかそんな類のひとたちですか」
と。
おまけにこのブログを真剣に取り組みたいと意識してからは本当に時間がありません。
そんな中で裏方のような活動をやってりしていると言い方が悪いですがなんでこんな事をしているんだろうという気にもなってきます。
そもそも会の教えには人が人として生きる上で最も大切な項目が17章にわたり綴られているので、それに沿った行動といえるのでしょう。
それが未熟ゆえに分かっていないだけかもしれません。
多分、会メンバーに相談すると学びが足りないという話になると思います。
ここで1つ、現在の心境にぴったりな1章を紹介しておきます。
アタマではワカッテいるが、ココロではわかっていない内容であります。
【十五】信ずれば成り、憂えれば崩れる 『信成万事』
信ずるところに成功があり、憂えれば崩れていく。
という浅はかな要約ではありますが、非常に深いであろう章であります。
この章に「信ずるが故に神あり」という文言があります。
ぼくが見ていた会メンバーの姿は神がかっていたのではないかとこの文章を見て思いました。
あともう1部分だけ、触れて終わろうと思います。
≪憂えるのは疑うからである。あぶないから憂えるのではない。憂えるから失敗する。憂えるから危ない。病気は憂えるから長びく、重くなる。事業は憂えるから崩れる。≫
といった1節があります。
ぼくの原因は無報酬だから疑う。疑うから危なく疑念も長引き不満もつきない。
素直に万進して取り組んでいる人たちは信頼という報酬を得ているのだと思います。
そんな人物に成長していければぼくも「神とかそんな類のひとになれるのだろうか」
という事で終わります。
最後までお読み頂き有難う御座いました。